ESSAY Part 2 - Charlie DeChant


-Sax and Keyboard player for Hall & Oates-

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■高校卒業~大学時代について

 ベトナム戦争真っ只中の頃、私はちょうど徴兵年齢に達していた事に気づいた。それで友人のレオと一緒に陸軍の音楽隊に入ろうと考えた。音楽隊なら戦争に行かずに済むし、音楽修行を積むためのよい経験になると思ったんだな(笑)。でも、喘息の病歴があって二人とも入隊を拒否された。そう、私たちは二人揃って喘息持ちの管楽器奏者だったというわけさ。
 でも採用担当者が言うには、私たちはまだ入隊出来る可能性があるという話だった。徴兵委員会から手紙が来たので、私は車でアラバマ州に行って身体検査を受けてきた。結論から言えば、またダメだった。理由は未だに分からない。喘息のせいか、視力が規定値を下回っていたからか…まぁそんな所だろうね。しかし彼らは私を「1Y」というクラスに分類した。「有事の場合のみ徴兵する」という意味なんだそうだ。

 フロリダの大学に通っていた時、私は本当にプロのミュージシャンになりたいと思うようになった。それで、地元のクラブにジャム・セッションに行って、そこでミュージシャンと頻繁にたむろするようになった。もちろん成績は下がったし、そのせいで奨学金も失ってしまった。でも、もともと音楽教師とかになる気はなかったし、学位を取っても自分のキャリアの役には立たないだろうと思っていた。もちろん、今思えば学位を取得しておいた方がよかったのかもしれないけど、まぁ、そう言いつつ学位は今も持っていないからねぇ(笑)。

 それで大学三年生の時に地元に戻ったら、The Catalinasに女の子のシンガーが加入していて、バンド名が”Pam Hall and the Catalinas”になっていた。アルト・サックスのジョンと、私がバンドを抜けた後に入ったテナー・サックスのジェイは、二人ともギターを弾くようになっていた。彼らがキンクスの”You Really Got Me”を演奏していたのを憶えているよ。
 ある日(トランペットの)レオとばったり会ったんだが、彼もちょうど大学をドロップ・アウトした所だった。私たちはバンドのドラマーと一緒にアトランタへ向かった。何とか現地でギタリストを見つけて、レオと私はベースとピアノを時々交代で弾きながら、南部のクラブで演奏の仕事をいくつか見つける事が出来たんだ。

■プロ・ミュージシャンへの道

 南部では、後にメジャーになった新進のロックスターとよく出くわしたよ。ジョニー・ウィンターとエドガー・ウィンターは当時”The Black Plague”というバンドをやっていた。オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアンとグレッグは”Allman Joys”というバンドで活動していた。私はエドガーとジャム・セッションをした事があったが、どうも彼は憶えていないらしい。彼は私にボビー・ティモンズの”Dat Dere”のピアノパートを見せてくれたんだ。
 アトランタでは、私はバリー・ベイリーやポール・ゴダード(後のアトランタ・リズム・セクションのメンバー)、そしてドラムスのマイク・ヌポートと一緒にバンドを組んで、ジミ・ヘンドリクスやクリーム、ドアーズの曲なんかを演奏していた。私はアルト・サックス奏者だったが、同時にバンドのシンガーでもあったんだ。バリーはグラント・グリーンやジェフ・ベックが好きだったようだが、私はキャノンボール・アダレイやローランド・カークの大ファンになった。ジェスロ・タルのフルート演奏を目の当たりにしてからは、彼らのファンにもなったけどね。

 私の記憶が確かなら、バリーと私は”Wayne Logidice and the Commotions”というジェームズ・ブラウンとジョー・テックスの音楽をミックスしたようなソウル・グループに在籍していた時期があった。ツアーで南部を回ったり、アトランティック・シティーのワンダー・ガーデンで演奏した事もあった。多分、ニューヨークのアポロ・シアターでも演奏したんじゃないかと思う。

 アトランタでは、私の次の2、3年の人生を変える事になるバンドの世話をした。「ベツレヘム・アサイラム」というバンドだったんだが、私たちはフロリダ州パイネラス・パークにあるビュー・アーツ・コーヒー・ハウスに集まった。彼らは1969年のアトランタ・ポップ・フェスティバルに参加するためにやって来たんだ。そこで、私はアトランタの自宅に彼らを招待したというわけだ。

 私はセントピーターズバーグの大学に通って、夜に演奏出来るような場所を探していた時から、ダニー・フィンレーの事を知っていたんだ。パイネラス・パークはセントピーターズバーグの北の隣町で、もしセットリストをきちんと組んで、ライブ演奏をする気があるなら、さっき言ったビュー・アーツ・コーヒー・ハウスにはタダで入れたんだ。私はいつもそこにサックスを持参して、ジャズのスタンダード・ナンバーとか即興の曲を演奏していたよ。もちろん、そこでは多くの新進のソングライターやフォーク・シンガーと交流を持ったし、ギターの演奏を学ぶ事が出来た。実際、私はその頃古いアルト・サックスとアコースティック・ギターを交換したしね。確かギブソンのGBOだったと思う。

 後にパナマ・レッドとして知られる事になるダニー・フィンレーは、そんな中で会ったシンガー・ソングライターの一人だ。当時、彼は陸軍新聞の記者として滞在していた韓国から戻ってきたばかりだったんだ。彼は”東門”と名付けた長細い楽器を持っていた。私はフルートで彼とセッションしたよ。何たって、私は「ソウル(Seoul)・ミュージック」の心得がある男だからね…って、今のはシャレだよ。分かるかい? 後になって分かった事だが、彼の演奏は完全に計算されていたものだった。それでも私は自分なりのスタイルで即興演奏を楽しんだよ。彼も私の演奏が気に入ったようだった。
 南部を旅していた頃、ダニーはビュー・アーツの常連ミュージシャンとバンド活動を始めていた。ジム・”ナスティ”・ニーマンという男がベースギター奏者として雇われた。ギタリストってのは、6弦から4弦に格下げされたような楽器で夜通しベースのフレーズを弾くなんてまっぴら御免だという人間が多かったんだが、驚いた事にジム(彼は後に”キャプテン・エゴ”として知られる事になるんだが)はそれを引き受けた。なかなかの手練れだったよ。ラッセル・”バディ”・ヘルムはドラマー。彼はインディアナでマーチング・ドラムを習っていて、高校では”Those 5”というバンドをやっていたんだ。それからロバート・クリスチャン・ガンディーという奴がキーボード、トロンボーン、フルート奏者としてバンドに加わった。これがベツレヘム・アサイラムというバンドだよ。

 まぁそんなわけで、彼らはアトランタ・ポップ・フェスティバルに参加するために私の家に押しかけてきたんだ。私たちはフェスティバルに行って、いろんなバンドを見て、彼らの音楽を聞きまくって、ちょいとばかり羽目を外しながら、いつかは自分たちもビートルズみたいにビッグになってやるんだと思ったもんさ。


To be continued…?